「我たとひ死刑におこなわるとも、
このこと言わずばあるべからず」
(ただ一向に念仏すべし) (法然上人)
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える「専修念仏の教え」を説く。
「私が念仏を唱える事で、死罪になると云われても、
念仏の教えだけは、説かずにはいられない」と言っています。
当時の日本の仏教は、本質的に「国家の仏教」でした。
僧侶の仕事と言えば、経典を読誦して国家の安泰を祈ることでした。
国家が安泰になれば、庶民もすくわれ幸せになれるはずとの考えが
根底にありました。
このような時代背景の中だからこそ、法然上人は大勢の
庶民(衆生)が救われる仏教が必要であると考えました。
いわゆる「他力の仏教」です。
「他力の仏教」は、阿弥陀仏に極楽往生のすべてをおまかせして、
阿弥陀仏が持っておられる救済力によって救われるとする教えです。
「自力の仏教」は、自分の力で仏道修行をおこない、
悟りを開く仏教です。これがいわゆる国家の仏教になります。
「国家の仏教」においては、庶民の救済は軽んじられていました。
一方法然上人が説く「他力の仏教」は、「阿弥陀仏」に極楽往生の
すべてをおまかせして、阿弥陀仏が持っておられる救済力によって
救われようとする仏教です。
阿弥陀仏という仏は、「自力の仏教」を実践できない
大勢の凡夫を救いたいという願いを持っています。
これを「阿弥陀仏の本願」といいます。
つまり法然上人は、「国家仏教」から「民衆仏教」へという
百八十度の転換を行なった事になります。
いわば「日本の宗教改革の断行」とも言えます。
「南無阿弥陀仏」
「南無」とは、「おまかせします、帰依します」という意味。
*「阿弥陀仏」に「おまかせします」と唱えることは、
誰にでも実践が可能な教えになります。
河童忌や 目指し頭の 味苦し
2020.07.11 moai291